『群像』2005年3月号(講談社)

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から、「文藝批評への欲望」 仲俣暁生田中和生


仲俣が昨年末に出した『極西文学論』を軸とした対談。
著者によって語られる、いわば「メイキング・オブ・『極西文学論』」としても、面白く読んだ。
『極西文学論』では村上春樹が「パソコンにおけるOS」のような機能を果たしている、といった説明は、いろいろと示唆的だし。また、なぜ村上春樹が参照点とされるのか?、という点も、多面的に説明されている。
これを機に、ほとんど読んでいない90年代前半までの村上春樹の作品も、読んでみようかと思う。

また対談の最後で、仲俣は次のような、今後の批評における姿勢のようなことも言っている。

でもなるべく全方位から、嫌がられてもいいから、反応を引き出したいんです。池に石を投げることによって波紋が広がっていって、波紋自体が公共性を持つということは十分あると思う。ある種のいらだちなり反発を生み出すなかから公共性をつくり出していくような言葉の使い方が、批評のなかにあってもいいと思うんですよ。

「波紋自体が公共性を持つ」という部分が、とくに印象的な言葉だったので、ここに引いておく。