ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(大月書店)

リキッド・モダニティ―液状化する社会
いかにも翻訳ものという感じで、しかもけっこううねっている文体なので取っつきにくいけれど、いろいろと「目からうろこ」的な記述がある。印象に残った部分を抜き出してみると、

いま、一般に「公的課題」とみなされているもの、あるいは、そう解釈されているものは、とどのつまり、公人の個人的問題にすぎない。民主政治の伝統的問題ーー公人による公務遂行が、国民、あるいは、選挙民の福祉と幸福に、どれほど有益かーーは、福祉にたいする集団的責任、幸福な社会、公正な社会などについての公的関心を道連れに、公的な場から姿を消した。(p92)

もし、現代的進歩があまりにもみなれない形をしているので、現代にほんとうに進歩はあるのかと疑われるのは、進歩の意味が他の近代的要素同様、極度に「個人化」したためだ。別のいい方をすれば、進歩が規制緩和され、民営化されたのだ。(p175)

共同体的世界は、共同体の外にあるものがすべて、どうでもよくなったときに完成する。もっと正確にいえば、共同体の外が共同体の敵対者、混乱を武器としてふりかざす敵にあふれた、待ち伏せと陰謀の未開地に見えたときに完成する。共同体的世界の内的調和は、出口の向こう側にひろがる暗い密林を背景にすると、余計に光り輝いてみえる。...中略...「包括的共同体」というのは言語矛盾である。共同体的同胞愛は、仲間殺しの先天的傾向なしでは考えられず、また、成立せず、絶対機能しえない。(p222-223)

など。

いま、フランスで若者たちを中心に現政権に異議をとなえる行動が起こっているけど、こういうニュースを見ると、本書での指摘は今の日本でこそ当たっている、と感じざるをえない。