知識人の定義

先日感想を書いた、四方田犬彦『心は転がる石のように』の中から。

モーリス・ブランショが最晩年に刊行した『問われる知識人』で記した知識人の定義を、6項目に要約して紹介している。(p28-29)
記憶にとどめておきたいと思う文面なので、以下に引用する。

1 知識人とは、なによりも犠牲者について語る人間である。犠牲者が体験した不正義を世界に告発し、それに抗議する。しかし知識人は、けっして彼らを聖人化して、彼らを媒介として抽象的な正義を振りかざしてはならない。神秘主義は知識人の敵だ。
2 知識人は理論家と実践家の、ちょうど真ん中に位置している。ものを書くことと、行動することの、両方を行わなければならない。
3 知識人とは、作家であるとか、芸術家であるとか、学者であるといった、そもそもの専門から離れて、それまで自分に似つかわしくないと考えていたこととか、面倒臭いだけで少しも得にならないことを、あえて始めようとする人間である。
4 知識人はいつまでも、どんなものに対しても知識人であることはできないし、そんな必要もない。昔そう考えたサルトルは、身動きがとれなくなってしまった。人はある特定の正義のために、ある特定の瞬間において、知識人であることしかできない。それで充分なのだし、それしかできないのだ。
5 知識人は最終的には、無名の人間の群れに戻っていく存在である。自分の名前が一人歩きしてゆくときこそ、もっとも気をつけなければならない瞬間なのだ。
6 知識人にとって重要なのは、不正義が倒され、正義が拡幅されたときではなく、むしろひとたび回復された正義がただちに硬化して、別のものへと変節していこうとする瞬間である。あらゆる革命や解放闘争の直後に何が生じたかを、もう一度考えてみなければならない。

もうひとつ、p58から。

日本人の得意技とは、次の3つである。
1 二枚舌
2 臭いものには蓋
3 たらいまわし

だそうである。


すでに先月号なのだが、図書館で借りてパラパラと読んだ、

『群像』2005年3月号(講談社)

http://shop.kodansha.jp/bc/books/bungei/gunzo/index.html

から、「文藝批評への欲望」 仲俣暁生田中和生


仲俣が昨年末に出した『極西文学論』を軸とした対談。
著者によって語られる、いわば「メイキング・オブ・『極西文学論』」としても、面白く読んだ。
『極西文学論』では村上春樹が「パソコンにおけるOS」のような機能を果たしている、といった説明は、いろいろと示唆的だし。また、なぜ村上春樹が参照点とされるのか?、という点も、多面的に説明されている。
これを機に、ほとんど読んでいない90年代前半までの村上春樹の作品も、読んでみようかと思う。

また対談の最後で、仲俣は次のような、今後の批評における姿勢のようなことも言っている。

でもなるべく全方位から、嫌がられてもいいから、反応を引き出したいんです。池に石を投げることによって波紋が広がっていって、波紋自体が公共性を持つということは十分あると思う。ある種のいらだちなり反発を生み出すなかから公共性をつくり出していくような言葉の使い方が、批評のなかにあってもいいと思うんですよ。

「波紋自体が公共性を持つ」という部分が、とくに印象的な言葉だったので、ここに引いておく。